ヅァギが雪原に倒れふしたのを真紅色の瞳でしっかりと確認した刹那、アルティミスの体からどっと力が抜けた。ようやく緊張の糸が解けて、張り詰めた気持ちが消えて、そして、アルティミスの体は、ゆらりと後ろへと倒れこんだ。
今の今まで、突然の事件に怯え、助けと安堵を求めてルーウェンを探し、そして、傍に居てほしいと思って、頭痛と喉の痛みと一時的な失明に苛まれながらも、アルティミスは前に向かう事を止めず、駆け続けた。脳内ではそんな悠長なことを言っている場合ではないと分かっていても、それでも、行動を起こさずにはいられなかった―――結果的に、それがルーウェンを救った事となったのは紛れも無い偶然ではあるが。
とさ……という軽い音と共に、アルティミスは、自分が雪原の上に倒れこんでいるということを認識する。見上げた空は何時もの通りにまっくらだった。
小さく息を吐くと、頭痛と喉の痛みが再び襲ってきて、アルティミスは真紅色の瞳をぎゅっと強く閉じる。安堵したことにより、痛覚に対する我慢の感覚が薄れてしまった事を認識し、再び、その痛みに耐えようとする。
「―――何故だ!アルティミス!何故、そんな体に!?いや、それよりも……なんで我を追ってきたッ!」
瞳を閉じて真っ暗になった視界の向こうから、聞きなれた男性の声。
はっ、として目を開くと、そこには、必死の形相で、アルティミスの顔を真上から覗き込んでいる、長髪黒髪の青年の姿があった。
「……ルーウェン、さん……ごめんなさい。アルティミス……勝手に、でてき……ごほっ、ごほっ……」
喉の痛みに、思わず咳き込む。本来なら、常時痛覚遮断を発動しているはずの『龍使い』だが、『黒の水』の暴走で、痛覚遮断の強度が下がっているのか、アルティミスは、本来なら無縁であるはずの『痛み』を感じるようになっていた。
そして、ルーウェンを心配させたという事実を改めて認めた瞬間、真紅色の瞳から涙がこぼれ、頬を伝った。
「……もしかせずとも、我の送った『黒の水』のせいなのか!?
ぐっ、こうなると分かっていれば『黒の水』など送らなかったのに!アルティミスが戦えないと分かっていても、それでも、万が一の時に戦えるように送った『武器』が、こんな形でこんな事態をよびおこしてしまうのかっ!」
それは自責。それは後悔。己の行動が完全に裏目に出てしまった事に対する失態への怒り。
「ルーウェンさん、おこってるの?お、怒る心配なんてないの。アルティミス…や、やっと、戦えたの。あ、後はヅァギ……さんをどうにかすれば、アルティミスに怖い事をする人はもういないの。だから……責めないで……」
泣き笑いの顔で、アルティミスはルーウェンの顔を見つめながら、そう告げた。
アルティミスの顔を覗き込んでいるルーウェンの顔に右手を持っていこうとして、アルティミスは、その異形さを改めて思い知った。
視界に映ったのは、漆黒の闇色の鋭いナイフ。
反射的に両手を自身の顔の前まで持ってくると、真っ黒に染まった両の手の全ての指は、一本の例外も無く鋭いナイフのように変形している事が確認できた。
「あ、そ、そうだったの、あ、アルティミス……こんな姿に、なっちゃったの」
涙なら先ほど流れたはずなのに、再び、新しい涙が流れる。
「……もういい、しゃべらないでくれ。お願いだから。後で、どんな話でも聞いてあげるから、だから、今は戻ろう。ヅァギが倒れた今、戦いは終わった。やっとここまで来た。そして次は、アルティミスを直す番だ。さぁ、立て…るとは思えないな。ならば、我が、こうすれば……」
「きゃっ……あ」
アルティミスの体に訪れたのは、僅かな間の浮遊感。そして次の瞬間には、アルティミスはルーウェンの両の腕の中に、御伽噺のお姫様のように抱っこされていた。そう考えるだけで、アルティミスの顔が朱に染まり、心臓の鼓動がどくんどくんと早鐘をうつ。
同時に、後頭部にあった『重み』がなくなったような感覚。首だけを動かして下を見ると、アルティミスが先ほど使った、アルティミスの髪の毛から(厳密には『黒の水』から)生成された金槌が、柄にあたる部分でぽっきりと折れていた。その断面はやはり漆黒の闇色で、血も、髪の毛一本も、何にも存在していない。
金槌の隣には、ルーウェンの相棒である『グナーデン・パイルバンカー』が、雪原にたてかけられている。アルティミスをお姫様だっこする都合上両腕を開ける必要があったので、『グナーデン・パイルバンカー』を地面に刺す以外に、ルーウェンには方法が無かったのだ。
「後は……ヘイズ殿となんとか合流しなけれ……」
「―――くっ…そ、やっと……やっと、追いついたぜ…あっと、もう全部終わっちまったか」
ルーウェンが周囲をきょろきょろと見回すのとほぼ同時のタイミングで、そのヘイズが姿を現した。肩を上下させて、ひどく息を切らせている。その理由を知っているアルティミスは、ヘイズの顔を見るなり「あ」と小さく一言だけ告げて、全ての指が一本の例外も無く鋭いナイフへと変形した真っ黒に染まった両の手で顔を隠した。
「……ああ、終わった。一応、ヅァギは生きているから、ノイズメイカーをつけてそのままシティ・ロンドンへと連行を頼みたい。本来ならば殺した方が後の懸念が無くなるのだが―――少々訳があってな。そうそう殺すわけにはいかなくなった」
「え…?」
「んー、つまり『むやみな殺生は避けましょう』って奴か?お前も甘いんだな。まぁ、オレとしても、出来るなら殺さねぇ方がいいと思うしな」
「なら、この男の身柄の拘束を頼めないか?」
「んー、気はのんねぇけど……ま、先生のツテを頼れば何とかなんだろ。騎士剣さえ取り上げちまえば大丈夫みてーだし」
「やはり、リチャード殿を頼りにしているのだな」
「ま、あれでもオレの恩人だしな。それに、先生はシティ・ロンドン内でも結構顔が利くから、それくらいはなんとかなると思うぜ」
「そうか、なら……」
「―――避けてっ!」
ルーウェンの言葉は、アルティミスの叫びによって中断させられる。ルーウェンは反射的に上体をそらし、眼前に迫ったそれを回避する。
つい先ほどまでルーウェンの頭があった場所を、黒いナイフが通り過ぎた。そのナイフを目線でたどっていくと……アルティミスの右腕にたどり着く。
「あ、あれ?おかしいの。アルティミス、こ、こんな命令、お、おくってないの。だ、だけど、分からないけど、こうなっちゃったの……」
無理をして作った泣き笑いの顔で、アルティミスはルーウェンの顔を見つめた。
伏せがちな目をしたヘイズが、小さく息を吐く。
「……正直、ダイレクトに言っていいのかどうかわかんねーけど……こいつはまさか……」
「そのまま正直に言ってくれて構わない。ヘイズ殿、ほぼ間違いなく、貴方の考えている事が、アルティミスに起こっている―――今のアルティミスは『暴走』している―――これだけで、貴方には分かるはずだ」
歯切れが悪いヘイズの発言に対し、ルーウェンは感情の無い声でそう答えた。
だが、その感情の無い声がルーウェンの本心でないことくらい、ヘイズは分かっていた
本当に感情がないなら、その両腕が、最早ヒトとしてのカタチを失ってしまっているアルティミスの体を、二度と離してしまわないように強く抱きしめることなどするわけが無い。
アルティミスがこんな状態だからこそ、自分が取り乱すわけにはいかない―――ルーウェンはそれを語らないが、それでも、その気持ちだけは、ひしひしと伝わってきた。
「……」
アルティミスは、何も、言い返せなかった。何も言い返さないことこそが正解だと思ったから、何も言わなかった。
「……今はまだ完全な『暴走』ではないから、きっとなんとかなる筈だ……だから、早く戻らなければ……早……ぐっ!」
アルティミスを抱きかかえたルーウェンが一歩を踏み出した刹那、その足が、ふらついた。
「おい!しっかりしろ!」
反射的に、ヘイズがその肩を抑えた。
「……すまない。助かる」
「それどころじゃねぇ!腰のタオル!新しく赤く染まり始めたぞ!お前だってやべぇんじゃねぇか!顔色真っ青にして、そんな事言っても説得力がねぇんだよ!」
「る、ルーウェンさん、怪我、ほ、ほんとに、だ、大丈夫なの?」
「何度も言わせるな。大丈夫だと言ったら……大丈夫だ。だから、我がまだ歩けるうちに、連絡を頼む」
「お前も随分と頑固なヤツだな。ま、その気持ちはわかんねーでもないけどな。そりゃ、アルティミスの前で弱いとこなんて見せらんねぇだろうし」
「?」
ヘイズの言葉の意味が分からず、アルティミスはきょとんとしてしまう。それと同時に、当のルーウェンは、どこか複雑そうな顔をしていた。
ヘイズが通信機をえて事情を全てリチャードに説明すると、それから5分も経たないうちに移動用のフライヤーがヘイズらの方へと到着し、ヘイズら3人はシティ・ロンドンへと戻った。
その後、リチャードはうまいこと手配してくれたらしく、ヅァギは『シティ・ロンドン近辺に住む住民で、シティ・ロンドンに対して反旗を翻そうとしたが失敗した』事にされ、魔法士用の独房へと放り込まれた。
アルティミスに関しては、シティ・ロンドン内部で変わり果てた姿のアルティミスを見たものが誰もいなかったことが幸いした。それでも、万が一、軍が調べに来ないようにするために、『今、ちょっと病気で寝込んでいるから、私独自の判断で面会謝絶にさせた』との説明をしておいてくれたらしい。
やはり、こういう時に一番頼りになるのは、この場において、この男をおいてほかにいないと分からされる瞬間だったといえた。
「アルティミスちゃん!?ねぇ!ちょっと!どうしてこんなことになってるのーっ!」
シティ・ロンドンの研究棟の特別医務室。目を瞑り、ぐったりとベッドに横たわり、すっかりと変わり果てたアルティミスの姿を見て、ファンメイは慌てふためき、動転する。
無理も無い。すぐに戻ってくると告げたはずのアルティミスが、ファンメイの知らぬところで『暴走』し、あまつさえ戦いの場へと繰り出したと聞けば、誰だって動転するはずだ。
因みにファンメイとてただ待ちぼうけしていたわけではなく、アルティミスがシティ・ロンドンの研究棟から外へと飛び出した時に、何事かと思いながらも、アルティミスがあまりにも帰ってこないので、迷子になっていやしないか、あるいは、謎の爆発に巻き込まれたんじゃないかと思い、シティ・ロンドンの研究棟内部を探し回っていたのだ。
最も、そのアルティミスはシティ・ロンドン外にいたのだから、見つかりようが無かったのも事実だが。
ファンメイから見た今のアルティミスは、ヒトの形を半分ほど放棄したような姿をしている。頭につけている、薔薇を象った飾りのついたヘアバンドが無ければ、一瞬、誰なのか理解できなかっただろう。後は、白系のウェーブ髪と、真紅色の瞳……元々のアルティミスを構成していた要素はそれくらいしか残っていない。
首から下は医療用毛布に包まれているために肉眼では見ることが出来ないが、それでも、毛布にありえない箇所で突起があったり、足にあたるであろう部分が異常に長かったりするのが、毛布越しでも理解できた。その毛布の下は一体どうなっているのか……見たくもないし、考えたくも無い。
「ねぇヘイズ!リチャード先生!教えてよーっ!」
アルティミスの横に無言で立ち尽くす2人に、ファンメイは状況の説明を要求する。尚、ルーウェンがこの場に居ないのは、ルーウェンは脇腹の傷のせいで手当を受けている為だ。
「静かにしろ」
ひどく冷静な、ヘイズの声。その声に、ファンメイは言葉を飲み込んだ。
「……『龍使い』である以上『暴走』の危険性は常にある。そんなの、考えるまでもねぇだろ。
お前には話してなかったが、アルティミスの『暴走』はお前よりやべぇんだ。アルティミスの『暴走』は突発性が強く、エイズのように突然発病しやがる。それも、かなり厄介な方向に、だ。つまりが、昨日までは大丈夫だったのに、今日になったらいきなり『暴走』してました―――ってな事になる可能性が常にあったって事だ。
実はアルティミスは、前に一回『暴走』した事があって、そん時はあんまり酷い状態じゃないから被害を抑えることが出来たけどよ……今度はどうなるかわかんねぇみてぇだって、ルーウェンが言っていた」
「――――あ」
その時、ファンメイは、先ほどまで何を忘れていたのか、思い出した。
あの時、ヘイズが言っていた……厳密にはヘイズから盗み聞きした―――『症状はファンメイよりやべぇ』という言葉。
おそらく、ファンメイを心配させないために、ヘイズはリチャードにこっそりと告げるという形で口にしたのだろう。最も、そのジャストタイミングでファンメイがその場にいるなんて可能性は、万に一つくらいしか考えてなかったかもしれないが。
「……それ、ヘイズが前にリチャード先生に告げた事でしょ?」
「ああ、オレは確かにリチャード先生にそんな事を言った……ってお前!まさかまた盗み聞きしてたのか!?」
「またって何よ――!不可抗力だったんだからしょーがないでしょーっ!」
「何でお前があん時にあんなところにいるんだよ!オレはお前にこの件を聞かせたくなかったから、態々あんなところまで行ったんだぞ!」
「その時は……えーと『メイちゃん気まぐれモード』って奴で、いつもと違うルートを通りたくなったのよーっ!」
「勝手なモードを作んじゃねぇ!」
「……漫才なら、他の場所でやってほしいんだがな」
小さなため息と共に、リチャードは二人のいる方へと振り返る。その後、すぐ近くにある研究用の液晶ディスプレイを拳で軽くこんこんと叩いて、こちらに注目するようにと二人に促す。
「まず、お前さんたちに話しておくことがある……黙って聞いてほしい。最も、半分はルーウェンから聞かされたことでもあるのだがな」
鋭く研ぎ澄まされたリチャードのその瞳は、一欠けらも笑っていない。つまり、これから告げられることが、一粒の冗談も辞さないような、そんな状態だと、リチャードは言いたいのだ。
そして、重苦しくなった空気の中、リチャードは淡々と告げた。
「まず結論から告げよう―――正確に言うと…あの子の体を構成する『黒の水』は、ファンメイのものとは形式が違う」
「…ふぇ?」
ファンメイが首をかしげる。リチャードの言っている意味が分からない。
シート型ディスプレイに視線を落とし、縁の操作パネルに指で触れる。
ディスプレイの表示が次々と切り替わり、アルティミスの体とI−ブレインの解析結果を映し出す。リチャードはその解析結果のとある一箇所を指差す。
リザルトと書かれた箇所に『該当データ:存在せず』と記されていた。
「データが……存在しない?」
「つまりが、ファンメイもアルティミスも『龍使い』である事には変わりは無い。
だが、その『黒の水』の作成原理が、僅かではあるが違っている。
詳しくいうと、ファンメイの体を構成する『黒の水』はアルフレッドの作り上げたものだが、アルティミスの体を構成する『黒の水』は、
細かく分析してみて分かったが、構成こそ非常に似ているが、随所に違いが見られる。
これでは、迂闊にファンメイと同じ治療法を施すわけにはいかん。至極簡単な例えばの話だが……風邪で喉が痛い状態の患者Aと、歌いすぎで喉が痛い患者Bに同じ喉用の薬剤を投入した所で同じ効果が得られるか?つまりはそういう事だ」
――もちろん、風邪で喉が痛いのと歌いすぎで喉が痛いのとでは、原因がかなり違うのだが、同じ『喉が痛い』という観念からそういう例を出したのだろう。
「じゃ、じゃあ、わたしと同じ治療法が、アルティミスちゃんには効かないって……そういうことなの?」
途端に涙目になるファンメイ。
「現状ではあくまでも『その可能性がある』に過ぎんがな―――だが、それを強く、肝に銘じておいたほうがいい。最悪、全く別パターンの治療法も考えなければならなくなる」
リチャードは目を瞑り、首を小さく横に振る。
「―――ねぇ」
頭がぽろりと落ちてしまいそうなまでに頭を下げたファンメイが、ぽつりと呟いた。
「……どうした?」
「ヘイズ、リチャードさん……今更こんなこと言っちゃうのもどうかもしれないけど……」
ファンメイは一呼吸置いた後に、心の中に浮かんでいた、ありのままの言葉を、口を通して表に出した。
「―――どうしてわたし達、こんな風にしか生きられないのかな………」
「――っ!」
「……」
ファンメイのその発言に、リチャードもヘイズも、無言で息を呑んだ。双方とも、重苦しい表情になる。
どうして、とファンメイは思うのも、無理は無かった。
確かに『龍使い』は、普通の人間とは身体を構成する物質そのものが違う。一般論からすれば、それを『異形』と呼ぶのも、ある意味では仕方の無いことなのかもしれない。
―――だけど、だからこそ、問いたい。
『龍使い』とて、きちんと人のカタチをしているのに、人と少し違うだけで、どうしてこうなるのか。普通の人と同じ人生を歩むことが、どうして出来ないのか。
ファンメイは、それが悔しくて、それが悲しくて、たまらなかった。
カイ・ルーティ・シャオ。あの『島』を巡る事件でも、三人の龍使いが犠牲となっている。そして今、ファンメイの目の前で、一人の少女が命の危機に曝されている――ファンメイにとっては、これだけで、そう考えるには十分だった。
ひどく重苦しい空気が、特別医務室を包みこむ。だが、リチャードが言葉を発したことにより、沈黙にはいたらなかった
「……ファンメイ、お前さんの問いに対して、私は答えを返すことが出来ない。だが、お前さんのその意見には、ほぼ全てにおいて同意だよ。ヒトとしての外見を持って生まれてきたのに、生まれの違いだけで差別され、ヒトとは違う生活を強要される―――本当に、マザーコアと同じような理屈だ……一緒くたにはしたくないんだがな」
続けて、ヘイズも口を開く。
「オレもそう思うぜ……んだがよ。世の中、全部が全部不幸ばっかりって訳じゃねぇ。
似たような境遇の魔法士達が、同じようなところに集ってるんだ……世の中がいくら不幸に満ち溢れていても、こいつだけはその中での唯一の幸運だとオレは思うぜ……同じような境遇の奴が近くにいれば、それだけで支えになれる……オレの言いてぇ事、分かるよな?アルティミスの気持ちを本当の意味で分かってやれるのは、ファンメイ、お前しかいねぇってことだ」
「―――うん」
ファンメイは、にっこりと、笑顔で頷いた。二人の意見のおかげで、少しだけうれしい気持ちになれたからだ。
その時、特別医務室の扉がノックされる。
「―――失礼する」
その声が誰のものかなんていう説明は最早不要だろう。
「ああ、いいぞ」
リチャードの返事と共に、がちゃり、と扉が開けられる。入ってきたのは、シティ・ロンドンの病人服の上に、借り物のコートを羽織った長髪黒髪の青年。
「ルーウェン、傷は大丈夫なのか?」
「ああ、それほど深いというわけでは無かった。止血も早めにしておいたおかげで、大事には至らずにすみそうとの事だ」
リチャードの問いに、ルーウェンはいたって普通に答える。
「よかったな。もし、お前の傷が酷い事になっていたら、悲しむ奴がいることくらい分かってんだろ?」
「………あ、ああ」
口の端にかすかな笑みを浮かべたヘイズの言葉に、ルーウェンはなにやらお茶を濁すような口調でそう答えた。
「悲しむ人ってのは、間違いなくアルティミスちゃんのことだよね」
「……ッ!」
にこやかに微笑みながら告げたファンメイの言葉に、ルーウェンが明らかな形で形相を変えて驚く。それはまさに、図星を突かれた人間の反応だ。
(へぇ〜、そこまで驚くなんて意外……あれ、これってもしかして……)
その先を考えようとすると、頬が緩みそうになったが、今はあえてその先を考えるのをやめておいた。強いて言うなら『アルティミスの想いが叶う日はそう遠くない』という事になるだろう。
ファンメイが聞いた話では、ルーウェンは非常に強力な能力を保持しているらしいが、対峙したヅァギがその能力に対しての対策を念入りに練っていたために、ルーウェンは思うように戦えず、脇腹に傷を負ってしまったと聞いている。
ファンメイはルーウェンのもつ能力を知らないが、今度、機会があったらなんとかして聞き出してみよっかな、と思った。
「……は……ぅ」
その時、4人のすぐ近くのベッドから、小さなうめき声が聞こえた。
4人は素早く反応し、声のした方向へと振り向いた。
その瞬間、ベッドの上の眠り姫が、その真紅色の瞳をうっすらを開ける。
「…あ。み、みなさん……」
「アルティミスちゃん!良かった!目を覚ましたのね!
もう!勝手に危険なとこに行って、勝手にこんな姿になっちゃって……わたし、本当に心配したんだからね!」
「……ご、ごめんなさい」
「謝ってすむ問題じゃないの!どうして一人で行動したの!」
無論、自分でも無茶な事を言っていると、ファンメイは気づいていた。
ファンメイとて『暴走』状態を経験した身だ。『暴走』するという事は、今までの自分が、自分じゃない別の存在になるような、そんな感覚に襲われること。思考が回らなくなり、どうしていいか分からなくなるのは無理も無いことだというのも分かっている。
だけど、それでも、ファンメイはアルティミスに対して、そう叫びたいという感情を止めることができなかった。
「……だ、だって、こんな姿……ファンメイさんには、み、見せたくなかった、から……い、いつものアルティミスとぜんぜんちがうから、だから……」
「そんなの関係ないの!例えどんな姿でも、アルティミスちゃんはアルティミスちゃんなの!それは絶対にぜったいなの!だから、そんな事いっちゃ駄目っ!だって、わたし達―――『友達』でしょっ!だから、わたしにとってそんな事はぜんっぜん問題じゃないの!わたしにとって問題なのは……わたしに助けを求めてくれなかったことなの!」
アルティミスの弱弱しい発言に対し、そんな事は絶対に思ってはいけないのだとファンメイは叫ぶ。
―――今、ファンメイが躍起になっている理由はそこにある。
複雑に絡まった色々な要因があったからとはいえ、気づけなかったから、知ることが出来なかったから、助けられなかった大切な友達がいた。だから、もうあんな思いは絶対にしたくないと思った。
そして今、再び、ファンメイの目の前に、同じような境遇の子がいる。
助けて、と言ってほしかった。言ってくれれば、出来ることなら何でも協力してあげようと、強く、強く思っていた。
今度こそは誰も失わないと、あの時の悲劇は絶対に繰り返させないと、心に、そう決めたから―――。
「……ごめんなさ……ごめ……」
嗚咽交じりの声。真紅色の瞳からの涙。
すっ、と、横から差し出される。差し出した主は、ルーウェンだった。
指が全てナイフのような形状に変化してしまった手でアルティミスはそれを受け取り、顔を隠すように顔に押し当てて、タオルの下で涙を流す。
そんなアルティミスの様子を見ながら、ルーウェンが口を開いた。
「ファンメイの言う事は分かるな?正直な話、我も同じ気持ちだ―――だが、それほどまでに、皆、アルティミスを心配してくれているんだ。この戦いで、アルティミスが無事でいられて良かったと思っている。
……後は、すぐに治療法を探してみせる。だから、それまで……待っていてくれ」
「……はい」
ルーウェンに対し、タオル越しに言葉を返す。顔を見せないのは恥ずかしさゆえか、それとも、涙が後から後からあふれてきて止まらないのか。
「ファンメイの言うとおりだ。そんな事を気にする必要性はどこにもねぇ。たとえどんな姿になったって、お前はお前なんだからよ……ま、後はファンメイが全部言ってくれたから、オレはこれ以上はいわねぇけどな」
台詞の最初の部分は真面目な顔で、最後の部分では肩を竦めて、ヘイズはそう言ってのけた。
「……ありがとう、ございまっ…ひっく……っく……」
感謝の気持ちを告げようとして、その口から嗚咽が漏れる。
「わかったろう。お前さんを心配してくれる人間は、このシティ・ロンドンの研究棟にいっぱいいるんだ。お前さんは、お前さんが思っているよりも、多くの人間に好かれている。それを常に念頭においておけ。
分かりきったことかもしれんが、お前さんは―――もう、一人じゃないんだからな」
いつもの顔で、リチャードが淡々と告げる。
アルティミスは無言でこくんと頷いた。少し頷いた拍子に頬を涙が伝う。どうやら、本当に涙が止まらないようだ。だけど、それは決して悲しみの涙ではなく、嬉し泣きの涙。
その涙は、自分が色々な人にここまで必要とされていると言われた少女の、心の中からあふれ出る感情そのもの。
その後おおよそ3分ほど、アルティミスは泣き続けた。そして、その間は、誰も、声をかけようとはしなかった。ただ、一人の少女の姿を、ずっと、無言で見つめていた。
「……大丈夫か?」
アルティミスが泣き止んだそのタイミングで、ルーウェンが声をかける。
「もう、大丈夫……」
そう言って、泣きやんだアルティミスは、びしょびしょになったタオルをルーウェンへと返す。ルーウェンはそれを左手でしっかりと受けとった。アルティミスの顔にはまだ涙の後が残っていたが、それでも、アルティミスは笑顔だった。
(この笑顔……そう、我は、この笑顔が見たかったんだ)
誰にともなく、心の中でルーウェンはそう呟く。正直、誰にも聞かれたくない呟きだった。
「うん!もう大丈夫だよね!じゃあさ、今日はもうゆっくり休もうよ。明日からまたがんばろ!」
「はい!アルティミス、いろいろがんばりたい」
本心から嬉しそうなファンメイの言葉に対し、アルティミスは柔らかな笑顔を浮かべて答える。
「さて、我も明日から……いや、今日から早速忙しくなるな。ヅァギの脅威はなくなったが、まだアルティミスには『暴走』という問題が残っている。だが、研究用の設備はシティ・マサチューセッツの中だ…しかし、かといって今更アルティミスをシティ・マサチューセッツに戻すわけにはいかない。いつ『暴走』してしまうか分からないし、何より、ファンメイと引き離すのは酷というものだ……どうしたものか…」
腕を組んで考え込んだルーウェンが難しい顔でそう告げた刹那、ぽんぽん、と、ルーウェンの肩を叩く者がいた。ルーウェンが振り向いた先には、リチャードの姿があった。
「おいおい、お前さん一人で背負い込んでどうする。私も手伝うに決まっているではないか。それに、アルティミスの治療法を探しているうちに、偶然でも、ファンメイの治療法が見つかる可能性もあるからな。お前さんも一人でつっぱしってはいかん。アルティミスが一人ではないように、お前さんも一人じゃないということを忘れるな」
「リチャード殿、それは……」
「と、その前に一つ質問だ。シティ・マサチューセッツには、お前さんの仲間はいるのか?それも、きちんと信頼できる仲間が、だ」
突然の問いにルーウェンは一瞬戸惑ったが、すぐに返答。
「ああ、4人ほど、研究者にして仲間と呼べる者達がいる。そして、我は、彼らは、彼女らは、絶対に裏切らないと信じている」
「なら、なんとかそいつらと研究は取れないか?これはあくまでも私の考えだが、お前さんはもう、シティ・マサチューセッツに戻らないほうがいいのかもしれんぞ。一芝居うって、お前さんがヅァギと共倒れになったとか、そういう噂を流したほうがいいかもしれん。あのシティは魔法士に対しての人権が低すぎる。危険としか思えんのだ」
「それは……」
「覚悟の上、といいたいのだろう?だが、正直な話、私はあのシティを信用することは出来ん。この先、もしアルティミスから『黒の水』の暴走が取り除かれたとしよう……そうなったら、何が待っていると思う?」
「何がと言われて……まさか、いや、やはりそういうことになりかねない……」
ルーウェンは一瞬だけ考えるしぐさを取ったが、やがて、その表情が苦々しいものへと変化する。それは、嫌な考えにぶち当たった人間のまさにそれだ。
「そう、お前さんなら気づいてくれると思っていたが、まぁ、そういうことだ。
アルティミスの『暴走』がなくなるということは、『暴走』という危惧がなくなるということだ。そうなれば、シティ・マサチューセッツの連中が、アルティミスを前線投入する可能性は十分に考えられる。
今までは『暴走』が危険だからなのと、無理な戦いが出来ないという理由から擁護されていたかもしれんが、それもいつまで続くか分からない。アルティミスの無事がこれからも保障されるという約束はないかもしれん……そういうことだ」
「……」
ルーウェンはそのまま下を向き、黙りこくる。
「……ルーウェンさん」
そこに、上目がちにルーウェンを見つめる、心配の色に染まった真紅色の瞳。
その瞳を見た瞬間、ルーウェンの瞳から迷いの色が一瞬で消えた。何を迷うことがあるのかと、何を戸惑うのかと、何を決断を遅らせるのかという考えがいっぺんに浮かび、ルーウェンの口から答えがつむがれる。
「―――偽造IDはあるから、シティ・ロンドンにそのまま移住するのも不可能ではない。故に後日、シティ・マサチューセッツに極秘で連絡をとろう。我はシティ・ロンドン付近でヅァギと交戦し消息不明となったと、こう伝えてもらうように連絡を取る……後のことは、連絡する時に考える。
アルティミスについては、シティ・マサチューセッツには『既に処分した』と偽装してあるから問題は無い筈だ」
『既に処分した』の単語の部分でルーウェンの顔がかすかに蔭る。だが、その台詞を言い終えた時には、ルーウェンの顔色は既に普段の顔色に戻っている。
無論ルーウェンだけでなく、この場に居合わせた全ての人物が、その単語に関してはいい感情を示さなかったが、それらの思惑を表立って出すことはなかった。
「……じゃあ、アルティミスちゃんもルーウェンも、ここに残るのね!」
『既に処分した』という単語の蔭りから一番早く立ち直ったらしいファンメイが、きらきらした瞳でルーウェンの顔を見上げる。
「ルーウェンさん……」
ありがとう、と言おうとして、アルティミスが右手をルーウェンへと差し出した。
――――ぐしゃりと音を立てて、右手首から先が砕けた。
まるでナイフで切ったかのように滑らかな、アルティミスの右腕の切断面は、骨も血管も存在しない、のっぺりとした真っ黒な平面だった。
「…え」という小さな声と共に、アルティミスの真紅色の瞳が、大きく見開かれる。
「アル…ティミス?」
ルーウェンの黒い瞳が、驚きに見開かれる。
リチャードですら動揺を隠し切れず、「これは……」と呟く。
そして、ファンメイとヘイズの脳裏に、嘗ての記憶が瞬時にフラッシュバックした。
あの『島』で、ヘイズとファンメイに全ての事実を告げ、最後に『……空が……見えるわ』という言葉を残して死んでいった、茶色い髪に褐色の少女。
それと同じことが、今、目の前で起きた。『暴走』の初期症状をとうに超え、崩壊への秒読みが既に始まっている段階。
気がつけば、ファンメイとヘイズの体が、勝手に動いていた。
二人の視界の隅には、ほぼ同時に動くルーウェンの姿。
ルーウェンが、砕けたアルティミスの右腕を手に取ろうとして、その動きを止める。何か信じられないものをみたような目。それと、ルーウェンの体に走る、かすかな震え。
地面へと落ちたアルティミスの手は、黒いコールタールの液と化し、そこには、人間の少女の手としての原型は欠片も残っていなかった。
「……まさか…何故だ……」
黒いコールタールの液と化したアルティミスの手を見て、呆然としたルーウェンは震える声でそう呟いた。
アルティミスもまた、何が起こっているのか全く持って理解できていないのか、あるいは理解したくないのか、「え…」と、喉からかすかな声を出しながら、手首から先がなくなってしまった右手と、黒いコールタールの液と化した右手を見て、右腕を差し出したポーズのまま固まっていた。
その間に、ヘイズがリチャードに、ファンメイがアルティミスとルーウェンのそばへと駆け寄る。
「先生!このまんまじゃ取り返しのつかねぇことになる!」
「そんなものは、この状況を見れば一発で分かる!近くにある生命維持装置に担ぎ込め!」
「ルーウェン!呆然としている場合じゃないでしょ!はやくアルティミスちゃんを!」
ファンメイの一喝が耳に届いたルーウェンは、はっ、と我に返る。
「そ、そうだ。我が呆然としていてどうする。う、動かねば…動かなくてはいけない…」
ルーウェンがのろのろと我に返った時には、ファンメイは既にアルティミスのベッドの端を掴んでいる。近くにある生命維持装置にアルティミスを連れて行く準備は万端となっていた。
「アルティミスちゃん、待っててね!すぐに生命維持装置に連れて行ってあげるから!」
「は、はい…」
ショックのせいか、アルティミスは未だに呆然としており、返事にも、どこか、ここにあらざるもののような虚ろさがあった。
―――そのまま、アルティミスの体は、現在地から3部屋ほど離れた研究室にある、小さな培養層へと担ぎこまれた。
【 続 く 】
―――コメント―――
……『一難去ってまた一難』『前門の虎、後門の狼』。
まさに、これらの諺通りの展開になってます。
『龍使い』の宿命は、やはり、アルティミスにとっても避けられない運命だったという事。
では、続きは次の19話目で…。